2016年4月27日水曜日

2.さびしそうなチー

 ピポがいなくなってからもうすぐ半年になる。妻を失くしたチーは相変わらずさびしそうだ。同じころ妻を亡くしたクリのほうは、少しあきらめがついたようだけれど、チーの場合はピポが帰ってくるかもしれないと思うのか、あきらめきれないでいるようだ。放鳥したとき、クリは夫やあやさんにくっついていることも少なくなった。1歳をすぎた自分の子どもたちのそばにいたりして、若いからけっこうケンカも強い。それに比べて6歳8か月になる高齢者のチーは、みんなから離れ、鳥かごの上や額縁の上にポツンと止まっていたりする。鳥かご内を掃除する夫の腕にくっついていることも多く、元気がない。とにかく、ほかの文鳥たちと遊んだり争ったりはしない。
 ピポがいたときはピポに着いて元気に飛んでいて、ときにはほかの文鳥相手にうなったりもしていた。それが、夫やあやさんに身を寄せるようにくっついているのだけれど、そこに若い文鳥が飛んでくると、争うことなくあっさり追い払われてしまう。とてもだれかと争う気にはなれないようだ。
 チーが若いころはそんなことはなかった。
「ぐるるるうー」とうなって、よくマイやピポとケンカしていた。ピポと一緒になってからはあまり周りとケンカしなくなったものの、ピポとは元気に追いかけっこをしたりして楽しそうだった。そういえば、ピポに対してはけっこう威張っていた。
 そんなチーを頭のいいピポは上手に懐柔していて、放鳥するとチーをリードして遊んでいた。ピポが巻き上げカーテンに真っ先に潜って場所取りに成功すると、チーもその恩恵を受けてしばらくそこに潜って寝ていた。夫は少しすると、
「チーは、オレに引っ張り出されるのを待っているんだ」といってチーをカーテンから引っ張り出していたけれど、そんなときチーはすごい声で大騒ぎするものの、頭をなでられるとおとなしくなって素直に鳥かごに入れられていた。そして、そのまま独りで鳥かご内にいてピポが戻ってくるのを待った。
 ピポはチーと離れてしばらく独りでカーテンに潜っていることもあった。夫はチーを鳥かごに戻しても、ピポはそのまま出していた。
「ピポは独りでくつろいで眠っているんだよ」といっていたが、チーはピポにそれほど多くを頼っていたのかもしれない。
 だからピポがいなくなってチーが落ち込むのももっともだけど、もう半年になるのだ。それなのにますます元気がないように見える。だれとも争わないで逃げるし、独りでしょんぼりしていることが多い。
 このままチーはさびしく年をとっていってしまうのだろうか。ツボ巣に潜っているチーを見ると心配になる。
 パピのように妻がいなくなったら若いメスにモーションをかけるということもないのだ。パピはいまココと仲良くすごしていて幸福艘だから、よけいにチーが哀れに見えてしまう。生き別れとはややこしいものだ。チーは気の毒にいまでもピポを待っているのかもしれない。
          (4年前のピポとチー)

2016年4月21日木曜日

(3)鳥ぎらい

 世の中には鳥が嫌いという人がけっこういるようで、身近なところでも4人知っている。4人とも65歳以上の女性だから、若い人のことはよくわからないけれど、そのうち3人は成長期の経験が影響しているらしい。
 彼女たちは幼いころ、もしくは若いころに、食用にするためのニワトリの無残な姿を見ていたり、羽をむしられた肉の塊を見たりしている。わたしの中では目の前の文鳥と食卓のチキンは全くの別ものなのだけど、彼女たちは鶏肉嫌いと同等に小鳥のことも嫌いらしい。
 羽のざわざわ感がたまらなくいやで羽毛布団は使えないという人もいる。そんな感じはわからないでもないものの、それは恐らく実際の感触よりも想像力によるところが大きいのではないかと思った。
 あるとき、その彼女がわたしの家にきて、ソファーのクッションを手にしてきいた。
「これ、中は羽毛じゃないわよね」
 いまにも頬ずりしそうな格好できかれ、思わず
「ううん、違うわよ」といってしまったわたしだけれど、彼女は安心したようにクッションを抱いてくつろいだ。わたしは少し心配で様子をみたが、やっぱり彼女に何も起きなかった。それからそのクッションはずっと羽毛など入っていないことになっているけど、アレルギーが出た人はいないから知らなければ大丈夫のようだ。
 鳥の抜け毛に過敏な人は、鳥の羽が綿毛のように舞うのは苦手だろう。確かに換羽の時期は鳥かごの下だけでなくそこらじゅうに羽毛が落ちて、しょっちゅう掃除機をかけていなければならないほどだから、それを想像しただけでもいやになるというのもわかるような気がする。
 鶏肉嫌いという彼女は、ヤキトリのあのいいにおいもぞっとするのだという。そんなことを知らなかったわたしは、ヤキトリ30本を買い、彼女にそのお店から、同じ建物内にある集会室まで運んでもらったことがある。真面目な彼女は頼むと黙って持っていってくれたのだけど、あとで「生きた心地がしなかった」と聞き、申し訳なく思った。主婦なのにそんなに鶏肉が嫌いだなんて、思いも寄らなかったのだ。わたしがゴキブリを見て悲鳴をあげるのと同じくらいいやだったのかもしれない。とはいえ1本くらいなら彼女のお皿に乗っていても黙っているから、我慢のできる範囲というのがあるのだろう。あのとき30本のにおいは確かに強烈だった。
 鳥ぎらいといっても、この3人は小鳥の写真や絵を見てさわいだりはしない。文鳥も鳥かごに入っていれば気にしなくてすむらしいが。もうひとりの彼女は、本物の小鳥はもちろん、小鳥の写真さえ見ていられないというから重症だ。テレビ画面に鳥が映っているだけでも耐えられないそうで、一緒に見ていた家族が気遣ってチャンネルをかえるという。小鳥の大きな写真入りカレンダーが壁に掛けてあるわたしの部屋には、とても入ってもらえそうもない。入って卒倒でもされたら大変だ。
 そんな彼女もわたしの家に2度ほどきたことがある。正確には3度だったかもしれないけれど、1度は玄関で返ってしまったから、ほとんど問題はなかった。実はあとの2度は文鳥が14羽もいる居間に入って団らんし、そのときはまだ、わたしは彼女がそんなに鳥ぎらいだとは知らなかったのだけれど、幸い何事も起きなかった。
 それもそのはずで、夜の7時すぎの来宅だったため、文鳥たちの鳥かごには布がかけられていて、みんな眠っていたからだった。
 知らない人が聞けば笑い話かもしれないけど、彼女の鳥ぎらいは家族にとっても大変らしい。わたしには理解できないことで、彼女にもその理由はわからないというから、理由などなく嫌い、つまりそれほどいやなのかもしれない。どうも生理的に受け付けないらしいから、遺伝子にわたしとは違う何らかの鳥情報が入っている可能性がある。
 そういえば、わたしの場合、親たちも文鳥やインコを飼っていたし、祖母もチャボや怪我をしたオナガドリを飼ったりしていた。夫の祖父もたくさんの十姉妹を飼育していたことがあると聞いたから、環境によっても鳥ぎらいか鳥ずきかが決まってくるのかもしれない。
 ともあれ、そんな彼女たちが、このブログを見ることはないはずだ。

2016年4月15日金曜日

1、文鳥たちの朝

 朝6時すぎ、だれかがさえずっている。でも、それは1羽だけ。だれかわからないけれど、若いオス文鳥だろう。ほかのものは、あやさんが起きてくるのを静かに待っている。
 カーテンを引く音がしてあやさんの部屋のドアがあくと、待ってましたとばかりに一斉にさえずる。うれしそうな声だから、かわいい。
 居間のカーテンもあけ、
「パピちゃん、ココちゃん、おはよう」などといいながら、あやさんが鳥かごのおおいを順番に外していく。
「チュン、チュン」「ピピ」
 スカイカフェに仲良く乗っていた2羽が鳴いて、ココが鳥かごの中を動く。つぎはチーで、いつも順番は決まっている。
「うう~ぐるるう~」
 あやさんのあいさつが終わらないうちに、チーは相変わらずの鳴き声を返す。
 それから、トビとユウ、マイとルミ、メグとランの順に
「何々ちゃん、おはよう」といって布を外していく。
「チチチ」「ポピ」「チュン」「るるう」などと次々に返事があって、えさを食べだす。
 部屋の反対側の3つの鳥かごも同じようにする。みんな自分の布が外されるのを待っていて、少し遅れると早く外せと催促する。
 スーは元気よくさえずり、クリは「チュン」だったり「ぐるるる」とチーに近い声をあげるけれど、ミーはキョトンとしていることが多い。
 こうして彼らの1日が始まる。
 朝のあいさつに限らず、オスのほうがメスよりも反応がいい。メスは返事をしないことも多く、フーやピポも声を出して応えることは少なかった。それでも彼女たちは、必ず何らかの反応をして、あいさつに応えた。フーはこちらを見てあごをしゃくり、ピポは鳥かごの中を跳び回ったりした。それに比べると、トビもユウもランもあまり反応しない。ルミもマイと鳴き合っているだけだけれど、ココだけはパピと一緒に返事をしている。
 ココは6月には6歳になるから、いまではこの家ではメスの最年長。パピと暮らすようになって落ち着いている。
 朝のあいさつがすむと、みんなすぐにえさを食べだすけれど、抱卵中のものはまだ食べないでがんばっている。
 それからあやさんは鳥かごの下の新聞紙、えさの〝文鳥専科〟と水を新しくし、菜さしのサラダ菜も換える。サラダ菜は芯に近いところが人気だけれど、この部分がまわってくるには1週間もかかる。ちなみにスカイカフェのえさと止まり木の掃除は夫の役目で、これは午後の放鳥時に行われっている。
 えさが新しくなると、みんなすぐに食べだして、そのあと水浴びをするもの、ひとしきり、さえずるもの、ほかの鳥かごに向かい言い争っているものと様々だけど、やがて静かになるから、また眠ったのだろうか。
 お腹が満たされて、ひと眠りってところかもしれない。最近では午前中に放鳥することはほとんどないから、みんな午後にそなえて静かにしているようにもみえる。

2016年4月10日日曜日

(三十)きょうは3羽の誕生日

 ラン、スー、ミーが生まれたのは、ちょうど1年前のきょう。あっという間に過ぎた1年だった。3羽を産み育てたチビは4か月前に死んでしまったけれど、そのことを彼らは、どう受け止めたのだろう。すでに親離れしてからのことだったから、とくに変わったようすはなかったけれど。
 夫のクリとは違うのかもしれない。クリはいまだに寂しそうで気の毒だ。
 いま3羽はそれぞれ別の鳥かごで暮らしていて、放鳥するとスーとランが以前のように一緒に水浴びをしたりする。スーは、そのほかに水道の蛇口に飛んできて手のひらのプールに入っているけれど、蛇口だとマイと場所の取り合いになるから、ソファーの上の水入れのほうが気楽そうだ。ランとはヒナのときから仲良く入って浴びているから争うことはない。
 ミーとランが一緒に水浴びをすることはいまでもないものの、2羽の関係は少し変化してきていて〝ランの反撃〟などで紹介したとおり。それでもランがミーを好きになったとは思えないから、このままだとミーは〝悲しいピエロ〟になってしまいそうだ。
 ランはフーやピポのように頭のいいメスのようだけど、ひとりで人間に触れる機会が少ないから、少し愛情不足で育ってしまったかもしれない。あのころとは違い、いまは文鳥の数が多いから、ランを充分に可愛がってやる機会がなくなっている。文鳥も人間の子どものように、満たされないと周りを困らせて気を引きたくなるのかもしれない。
 スーの場合は積極的にあやさんや夫のところに寄ってくるから、可愛がり安井のだけど、ミーとランはかなり勝手に育っている。そのほうが文鳥にとっていいように思っていた。でもやはり繊細な文鳥さんのことだから、もっと頻繁に接してやったほうがよかったのかもしれない。
 とはいえ、3羽は無事に立派に育っている。チビも天国から見て喜んでいるだろう。
 とにかく、スーちゃん、ランちゃん、ミーちゃん、お誕生日、おめでとう!
 (それからグーグルさん、先月はママの誕生日祝い、ありがとう)

2016年4月4日月曜日

(2)郷土博物館

 数日前、学生時代の同級生3人と花見がてら近くの郷土博物館に行った。ここには昔の漁師町を思わせるものが展示してあり、海苔の養殖やべか舟の作り方なども紹介されている。以前にきたときと違い、この日はよく晴れた春休みの日なのに、子どもたちの姿はない。博物館の庭に造られている昔の町を模した場所もすいていた。たまたま登校日に当たっていたらしい。
 昔の家をそのまま持ってきたというたばこの入ったショーケースのある店に入ると店内にもガラスのケースがあって、中には文房具や石けん、歯ブラシなどが入っていた。たばこを売っている雑貨店だろうか。
 案内人に勧められて靴を抜いで土間から座敷に上がると、小さな卓袱台が置いてあり、友人が、
「こんなに低いのに座れるのかしら」といって卓袱台に添えてある座布団に座る。大丈夫そうだったものの、かなり小さい。高さのない茶箪笥と小ぶりな畳にマッチしていたけれど、これが昔の大きさだと思った。
 家の中の何もかもが小ぶりだが、ここにあるのは本当に使っていたものばかり。子ども時分には身の回りにあったものだがこんなにも小型だったかと感心してしまう。昔の慎ましやかで開けっぴろげな生活が浮かぶ。興味本位にトイレをのぞいてみると、小さな和式便器の両脇には足を乗せるせとものの台が置いてあり、友人と目を合わせて笑った。1階には畳の部屋が2つで、2階に続く階段があったが、通行止めになっていた。5年前の震災以後、2階は開放してないということだった。以前にきたとき狭い階段を上がると天井の低い承部屋があった気がするから、地震のときなどに逃げるのは大変だろう。氷を入れて冷やす冷蔵庫や掃除するときに使ったハタキなど懐かしいものを見ながらたばこ屋を出て狭い道路を行く。
 看板だけのすし屋や豆腐屋などが軒を連ねていた。入口の開いている家に入るとそこは休憩所になっていて、セルフサービスのお茶を飲んでひと休み。
 時代や価値観をを共有できる友人との会話は楽しい。いつのまにか若返ってくる。
 戦後日本の復興とともに歩んできた世代は、まず学校で民主主義を教わった。そして貧しいが自由な空気が広がっていた。やがて経済の発展とともに、与えられた自由はしぼんで行き、〝ものいわぬ人間〟が多くなった。物が豊かになるにつれ、人の心の豊かさはしぼんでいったような気がする。そして、生きにくくなった社会。わたしたちは何をしてきたのだろうか。
 一抹のさびしさを胸に、博物館の横にあるレストランに入った。
 ここに来るのも久しぶりだけど、昼時と逢ってにぎわっていた。名物のアサリ御飯を注文すると、若いウエイターが水を持ってきた。とても丁寧で、ひとりひとりに水を配る。そして老齢のウエイター、若いウエイトレスときて、注文や配膳に余念がない。このレストランは障害者や高齢者が働けるお店なのだ。もう20年ほど前になるだろうか、友人たちが障害者の働ける場所として市に働きかけてつくったレストランだ。先頭に立って奔走した友はすでにこの世にいないけれど、彼女がいなかったらこのレストランはなかっただろう。いまこうして明るく働いている彼らを見ると、これもわたしたちの時代が残したものと思い、誇らしい気分になってくる。いつも何かをやりとげるには闘いの連続で彼女はそのために命を縮めてしまったような気がするけれど、このレストランのにぎわいは、彼女の社会貢献のあかし。そう思うと涙が浮かんだ。