2015年2月26日木曜日

(一)最初の文鳥

 あやさん夫婦が近くのマンションから、埋立地の小さな庭つき戸建住宅に引っ越してきて、初めてのお正月。老夫婦だけということもあり退屈そうにしていた夫が、突然、
「これから文鳥を飼おう」といいだした。夫が「小鳥」ではなく「文鳥」といったのは、昔、文鳥を飼っていたからだろう。
 もうかれこれ30年になるが、千葉市のマンションにいたとき、1羽の白文鳥を飼った。あやさんの実家から鳥かごごと車に乗せて4時間ほどかかって連れてきた鳥で、そのとき、すでに生後4年くらいだった。部屋の中で放鳥すると人のところに飛んでくる、ピーちゃんという名のひとなつこい、まっ白な体に赤い嘴のきれいな文鳥だった。卵を産まなかったからオスだったと思うけど、晩年にはツボ巣を縫っている糸に足を引っかけて逆さ吊りになり、足の付け根を痛めてしまった。それからは飛べなくなってツボ巣にいることが多くなったものの、マンションに連れてきてから8年、生まれてから12年という長い一生を送ることができた。まだあやさんたちの子どもは小学生で生活に活気があったから、夫はそのころをなつかしがっているようだった。
 でも、あやさんは、文鳥を飼うのは気が進まない。いまのあやさんは、あのころとは違うのだ。
「だけど、文鳥を飼ったら遠出はできないし、たまには爪を切ってやらなければならないのよ」
 じつは、あやさんはだいぶ目が悪くなっていて、あの細い文鳥の爪など、とても切れない。
「それは、俺が切るから大丈夫だよ」
「だけど、文鳥の爪を切るのは難しいのよ。普通に切ったら血が出てしまうから」
 あまり器用でない夫に、そんなことができるのかと、あやさんは不安になるものの、そこまでいうのなら仕方がないような気がした。
 ペットを飼えば、思いがけない面倒なことも起きるだろうけど、いざ飼ってしまえば可愛くて、たいていのことは夢中で乗り切ってしまうものだ。それに、家にいることの多くなった夫にとって、何か毎日の楽しみも必要だろうと思った。生き物が相手なら、そうぐうたらにもしていられまい。老夫婦の生活が多少でも活気づけば、それに越したことはない。
 そう考えてしぶしぶ賛成したが、これからこの家に文鳥がくると思うと、少しわくわくした。夫はかなり喜んで、早速、インターネットで小鳥のいそうなペットショップを探し出した。
 七草前の、どんより曇った寒い日に、夫が、
「そろそろ店もやっているだろう」といいだして、まだ正月休み中かもしれないお目当てのペットショップへふたりで向かった。近くの駅前大通りから、車で5分ほど行くと目的地に到着し、道路沿いの広い駐車場に入った。停まっている車はまばらだったが、ペットショップは開いていた。
 店内は犬のうるさい鳴き声が響いていて、休み明けのせいか閑散としている。近くに客も店員の姿も見当たらない。ふたりは寒々しい店内を歩いて、小鳥のブースを見つけた。
 雑然と商品が置いてある肩ほどの高さの3段棚に、平べったい小鳥のケージが1つだけ乗っていて、中に3羽のヒナがいた。2羽は灰色の体で頭と尾が黒いから桜文鳥、1羽は全身が白いから白文鳥と、一目でわかる。
「ヒナはこれだけみたいだけど、どの文鳥がいいかな?」
 夫がいうように、いたのは文鳥のヒナだけで、インコやカナリヤなどのヒナは見当たらない。元気のよい桜文鳥に比べ、白文鳥は少し離れた場所にいて静かだ。それでも夫は、文鳥のヒナがいたので、ごきげんだった。
「白文鳥は仲間はずれで、なんだかさびしそうね」
「少し痩せているようだけど、やっぱり、白文鳥にしようか」
 ふたりは迷った末、白文鳥を選んだけど、ピーちゃんに似ていたわけでもなかった。
 忙しそうに小走りに通りかかった若い男性店員を呼び止め、白文鳥と鳥かごなどを購入した。また、ヒナから育てるのは初めてなので、飼育方法も聞きながら、必要なものを揃えてもらった。ヒナは紙箱に入れられ、あやさんがそれを抱えて車に乗る。ときどき紙箱のフタを開けてのぞくと、いつも大きな目をして静かに座っている。名前はあれこれ考えて、家に着くころには決まっていた。まだオスかメスかわからないから、「ピッピ」にした。
 家に入ってピッピを紙箱から出すと、細い体で少し飛ぶ。
「もう飛べるわ。だけど、羽が切ってあるのかしら」
 あやさんがピッピの頼りない飛び方を見て、そういったのは、ペットの小鳥が飛んで行ってしまわないように、羽を少し切ることがあると聞いていたからだが、夫は、
「いや、それはないな」と、きっぱり否定した。
ペットショップで教わったように、お湯で湿らせた〝むきえ〟を用意して、夫がピッピを手に乗せる。〝育て親〟と呼ばれる透明なプラスチックの棒を使って、さしえをすると、ピッピは少し食べたものの、もう自分で食べられるようになっていて、容器のふちに乗って食べ始めた。
 陽当たりのいい場所にタオルを敷いて水を入れたタッパーを置くと、すぐに中に入って水浴びもした。ペットショップの男性店員は、ピッピが生後1か月くらいだといっていたけど、そのまま鵜呑みにしていいものかわからない。その日は小鳥の担当者がいなかったようで、男性店員の自信なさそうな言い方が少し気になっていた。それでも、ふたりが文鳥をヒナから育てるのは初めてなので、1か月前に生まれたと思うことにした。
 ピッピはすでに、ひとりで食べられるし、飛ぶこともできる。それに手乗りになっていて、こちらが手を出すと、ちょんと乗ってきた。ひとなつこくて可愛らしい。
 あくる日、ピッピを鳥かごから出すと、居間の床をチャカチャカと歩き回った。あやさんがちょっと菜っ葉を洗って戻ると、見当たらない。名前を呼んでも、自分の名前とわからないのか応えない。いくら呼んでも鳴かないし出てこないので、困ったあやさんは、夫の帰りを待った。
 そして1時間ほどして夫が帰宅したので一緒に探すと、居間の壁面の本棚にいた。最下段にちょこんと座っている。多分、ずっとそこにいたのだろう。見知らぬ場所に放たれて、どこへ行ったらいいかわからなかったのかもしれない。キョトンとした顔でじっとしている。夫がそのまま手に乗せて鳥かごに戻したけど、ピッピにしてみれば、もっと早くに手を差し伸べてほしかっただろう。でも、あいにく、あやさんは目が悪いのだ。それに、そんな下のほうにいるなんて思ってもみなかった。
 居間の隅に鳥かごが置かれ、ピッピはふたりを見れば、ここから出せとせがんで騒ぐ。そのため、たびたび鳥かごから出すことになった。そして、ピッピがソファーにきて遊ぶと、ピーちゃんと過ごした昔が甦った。
 ピッピが家にきてから数日後、これから始まる楽しい生活を想像していた矢先だった。その夜、ソファーにいたあやさんは、隣に座っている夫の手の中で、ピッピが変な音を出しているのに気がついた。プチプチという音で、それが鼻から出ているのか、口の中から聞こえてくるのか判らないけど、ピーちゃんのときには聞いたことのない音だ。
「何かプチプチいっているみたいだけど、何の音かしら」
「さあ、そういうヒナの癖かもしれないな」
 ふたりはそのときは、あまり気にとめなかったが、次の日の夜も、ピッピは同じ音をさせた。それも前日より大きく聞こえる。食欲もあまりないようだ。
「ネットで見たら、食欲のないときに甘いお湯がいいみたいだぞ」
夫がそういい、砂糖湯を作ったけど、欲しがらない。手の中にずっといたいようで、鳥かごに戻すと出たがって暴れた。
 その夜、心配になったので、インターネットで近くの小鳥も診てくれるというペット病院を見つけ、翌日、連れて行くことにした。
 朝になって電話をかけたら、あいにく休診日。仕方なく、よく早朝にナビを頼りに車で連れて行った。受付をすませ、待合室で待っていると、診察室から若い女性に抱かれた毛の長い中型犬が出てきた。ここは小鳥も診てくれるという動物病院だから、犬や猫が多いらしい。名前を呼ばれ、ピッピの入ったプラスチックケースを抱えて診察室に入ると、優しそうな中年の男性医師が待っていた。ピッピはケースから出されて診察台に乗せられると、小さな細い体でしっかり立って、元気そうにふるまう。
 けれども、ふたりから様子を聴いた医師は、ピッピを見ていった。
「元気そうにしていますが、小鳥は具合が悪くても弱々しいところは、なかなか見せないんです。小鳥がぐったりしたら、おしまいですからね。頑張っているんです」
 そして、ピッピに触れることなく、深刻なことを告げた。
「いまこの状態で口から器具を入れて調べるのは、やめておいたほうがいいでしょう。可哀想ですからね。トリコモナスか何かに感染していると思います。きょうの午後辺りが山かもしれません」
 こうなった以上、小さいので、とにかく温めるしか助ける方法はないという。温度が高く保たれている小鳥用の病室があるというので、迷ったけれど入院させることにした。何とか助かって欲しい一心でそう決めたものの、いやがるピッピを見たとき、あやさんは後ろ髪を引かれる思いだった。
 家に帰ってから、祈るような気持ちで山場といわれたその日が過ぎるのを待った。落ち着かない気分でいたが、前夜の睡眠不足のせいか午後になるとうとうとしていた。 
 そんなとき、家の電話が鳴り出した。ちょうど3時ごろだったから、いやな予感がして、受話器を取ると、やはり病院からだった。医師の低い声が、ピッピの死を告げた。
 あのときピッピは、ふたりから離されて、がっかりしてしまったのではないだろうか。見捨てられたように思ったかもしれない。そんな気がして、同じ死ぬなら、せめてこの手の中で看取ってやればよかったと思った。だれもいない病院の箱の中で、寂しく死んで行ったピッピが可哀想でたまらなかった。
 死んだピッピの体の中を調べたら、やはりトリコモナス菌が見つかったそうで、もっと早くなんとかできなかったかと悔やんだ。
 夕方には花束の添えられた、ちっぽけな白い亡骸を引き取って、ピッピはこれほど小さなかたまりだったのかと思うと、悲しみが増した。そして、あまりにも短すぎるピッピの一生を悼んだ。
 翌日、庭の雪椿の木の根元に埋葬したが、ピッピがあやさんちにきてから、1週間後のことだった。
 その日、あやさんは、濡れた目でピッピのお墓を見つめながら、もう2度と小鳥は飼わない、と決めていた。

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