2015年6月29日月曜日

(十三)フーが消えた③

 このところずっと熱帯夜が続いていて、冷房なしでは眠れない。今夜も冷房したまま寝るから、フーを冷やさないようにしなければならない。そこで部屋の送風口を閉めることにしたものの、どうしても冷気がもれてくるので、フーのプラスチックケースに小鳥用の暖房器を入れる。冷気がケースの隙間から入っても、これなら冷えないはず。とにかく冷えても熱くなりすぎてもいけないのだ。フーは何もいえないから、こちらが気をつけるしかない。
 ケースはベッドから見える位置に置いたけど、夜中にちょいちょい起き上がってケースに触ってみることになった。
 卵のほうは、夫が出かかったのを取り出し、小鳥の病院で1つ出してもらったから、今夜に産む心配は薄れた。卵を産み落とすには力が必要だから、もし今夜にでも産むことになっていたら、それこそ命取りだっただろう。病院に行っておいてよかったとつくづく思う。
 フーはプラスチックケースの真ん中辺に、車に乗っていたときのように静かに座っている。動物は具合の悪いときには、じっとしていることが多いから、やはりそうなのだろうか。それとも、卵を出してもらい薬も飲んだので、少し楽になって眠っているのだろうか。
 まずは一段落したものの、とにかく、この数日は気が抜けない。あやさんは、夜中に何度も起き上がってケースに触れたり、耳をすましてみたりしたけど、明け方にはぐっすり眠っていた。
 朝になったので、そっとプラスチックケースにかけてある布を外す。何と、フーは動いている。どうやらひと山越えたようだ。それでも、まだ峠は越えていないから気は抜けないと思った。
 夫も心配して早く起きてきたので、ベッドの上にタオルを広げて、フーをケースから出した。手に載せて皮つきえを少し食べさせ、小鳥の病院でもらってきたフォーミュラーという流動食を夫が〝育て親〟を使ってフーの口に入れる。高カロリーの栄養食品らしいけど、あまり喜んで食べないから、おいしくないのだろう。それでもピーと違って、少しだけど比較的素直に食べたのでホッとする。そのあと、消化剤やビタミン剤も、わりあい素直に飲んだ。そのままプラスチックケースに戻して静かに眠らせる。
 それを朝から4回くり返して、夕方になった。丸1日たったので、フーは少し元気が出てきたらしく、狭いケースの中を動き回る。
 それでも、まだ病院でいわれている山場の3日は過ぎていないから、フーは今夜もあやさんの部屋にいる。
 プラスチックケース内はだいぶ熱くなっているようで、フーはもうずっと、暖房器の反対側に寄っている。ケースの暖房器を外して、代わりに外気を取り入れようと、窓をあけた。
 外は相変わらずの高温で、ムワッとした風が部屋に入ってくる。これなら冷房していても大丈夫そうだ。
 今夜もフーが気になるので、スタンドの小さな明かりを点けて、ケースの覆いを半分にし、ベッドからケース内が少し見えるようにする。暖房器もはずしたことだし、これでいちいち起き上がらなくてもすみそうだ。
 あやさんがベッドに入ったのは11時ころだった。横になってプラスチックケースを眺めていると、渦暗がりのケースの中で、何か白っぽいものが上下に揺れ出した。
 何だろうと見つめると、フーが1か所に留まって、体を上下に動かしているように見える。あやさんは、もしやと思って、ぼうっと浮かぶ白っぽいものに目を凝らした。
「フーが卵を産もうとしているのかしら」
 そう思うと、祈るような気持ちになる。このような衰弱した体で卵を産めば、とても危険だ。あやさんはハラハラするけど、だからといって、いまは見守るしかない。
 しばらくすると、白いものは見えなくなったので、フーがケースの中を移動したようだった。
あやさんはベッドに横になったまま、耳をすます。けれどもエアコンの音以外は何も聞こえない。不気味な静けさが続いているだけで、フーが心配になってきた。そこでまた、天国のピーにつぶやく。
「ピーちゃん、お願い、フーを守って」
 やがて、パチッ、パチッという単調な音が、間隔をおいて小さく響いてきた。
「フーが、一生懸命にえさを食べている!」
 えさの皮を割る音がフーのたくましさを物語っているようで、あやさんの目に涙が浮かぶ。母親になったフーは、ずいぶん強くなった。そして、何と健気で賢いのだろう。
 12時を過ぎたころ、あやさんはようやく安心して眠りについた。とはいえ、朝までぐっすり眠れたわけではない。フーのことで興奮していたからというより、あまりの暑さのせいだろう。
 明るくなって、あやさんは、パチッパチッという音で目を覚ます。フーが、えさの皮を割る確かな音が続いていて、ケースの中をのぞくと、きのうより元気そうだ。
 卵がどこかに落ちていないかとケース内を探してみるけど、卵らしいものは見当たらなかった。あれは見間違いだったのだろうかと、当てにならない自分の目が腹立たしいけど、フーが卵を産んでないなら、そのほうがよかったとも思う。こんな体で、もう卵は産んで欲しくない。
「だけど、あの夜中に見た白っぽい動くものは、何だったのかしら」と、あやさんは合点がいかない。
 まもなくして夫が起きてきたので、フーをプラスチックケースから出して、栄養食品などを食べさせる。フーは相変わらずいやそうに食べていたけど、おとなしく従って薬も飲んだ。
 あやさんがケースの中の掃除を始めて、えさの入ったお皿を取り出すと、中に変なかたまりが紛れていた。えさが丸まってできた団子のようにも見えるけど、手に取って触ってみると柔らかい。えさにまみれた小さな軟卵だった。やはりフーは、あのとき卵を産んでいたのだ。ツボ巣の入っていないケースでは、どこに産み落としたらいいかわからなかったのだろう。そこで足場のよいえさ入れの小皿を利用したように思う。
 フーは、あの衰弱した体で、苦しみに耐えながらも何とか工夫して卵を産んだのだ。そう思うと、あやさんの胸はフーへの思いでいっぱいになった。
 そして、3回目の夜を迎えると、また夜中にフーが1か所で上下に動いて卵を産んだ。
朝になってケース内を見ると、やはり、ちっぽけな黄粉のおはぎのような軟卵が転がっていた。触るとまだ温かくて柔らかい。
 これで今回フーが産んだ卵は、ツボ巣に産んだ3つと、夫がかき出した1つ、病院で取り出してもらった1つを合わせて、7つになる。フーはこれまで、1回に7つ産んだのが最高だから、もう産まなくてすみそうだ。ただでさえ弱っている体が、産卵で体力を消耗してしまうから心配だった。
 事件後4日が過ぎて、フーは一応、危険な峠を越えたので、ふたりはようやく落ち着いた。けれどもフーの体が受けたダメージは大きくて、うまく立てなかった。夫がベッドの上で、フーを少し運動させてみたら、うまく飛べない。小鳥の病院でいわれたとおり、片足がおかしいようで、飛ぶには飛んだものの、やっとという感じで、足が治ってちゃんと飛べるようになるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。

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