2016年4月21日木曜日

(3)鳥ぎらい

 世の中には鳥が嫌いという人がけっこういるようで、身近なところでも4人知っている。4人とも65歳以上の女性だから、若い人のことはよくわからないけれど、そのうち3人は成長期の経験が影響しているらしい。
 彼女たちは幼いころ、もしくは若いころに、食用にするためのニワトリの無残な姿を見ていたり、羽をむしられた肉の塊を見たりしている。わたしの中では目の前の文鳥と食卓のチキンは全くの別ものなのだけど、彼女たちは鶏肉嫌いと同等に小鳥のことも嫌いらしい。
 羽のざわざわ感がたまらなくいやで羽毛布団は使えないという人もいる。そんな感じはわからないでもないものの、それは恐らく実際の感触よりも想像力によるところが大きいのではないかと思った。
 あるとき、その彼女がわたしの家にきて、ソファーのクッションを手にしてきいた。
「これ、中は羽毛じゃないわよね」
 いまにも頬ずりしそうな格好できかれ、思わず
「ううん、違うわよ」といってしまったわたしだけれど、彼女は安心したようにクッションを抱いてくつろいだ。わたしは少し心配で様子をみたが、やっぱり彼女に何も起きなかった。それからそのクッションはずっと羽毛など入っていないことになっているけど、アレルギーが出た人はいないから知らなければ大丈夫のようだ。
 鳥の抜け毛に過敏な人は、鳥の羽が綿毛のように舞うのは苦手だろう。確かに換羽の時期は鳥かごの下だけでなくそこらじゅうに羽毛が落ちて、しょっちゅう掃除機をかけていなければならないほどだから、それを想像しただけでもいやになるというのもわかるような気がする。
 鶏肉嫌いという彼女は、ヤキトリのあのいいにおいもぞっとするのだという。そんなことを知らなかったわたしは、ヤキトリ30本を買い、彼女にそのお店から、同じ建物内にある集会室まで運んでもらったことがある。真面目な彼女は頼むと黙って持っていってくれたのだけど、あとで「生きた心地がしなかった」と聞き、申し訳なく思った。主婦なのにそんなに鶏肉が嫌いだなんて、思いも寄らなかったのだ。わたしがゴキブリを見て悲鳴をあげるのと同じくらいいやだったのかもしれない。とはいえ1本くらいなら彼女のお皿に乗っていても黙っているから、我慢のできる範囲というのがあるのだろう。あのとき30本のにおいは確かに強烈だった。
 鳥ぎらいといっても、この3人は小鳥の写真や絵を見てさわいだりはしない。文鳥も鳥かごに入っていれば気にしなくてすむらしいが。もうひとりの彼女は、本物の小鳥はもちろん、小鳥の写真さえ見ていられないというから重症だ。テレビ画面に鳥が映っているだけでも耐えられないそうで、一緒に見ていた家族が気遣ってチャンネルをかえるという。小鳥の大きな写真入りカレンダーが壁に掛けてあるわたしの部屋には、とても入ってもらえそうもない。入って卒倒でもされたら大変だ。
 そんな彼女もわたしの家に2度ほどきたことがある。正確には3度だったかもしれないけれど、1度は玄関で返ってしまったから、ほとんど問題はなかった。実はあとの2度は文鳥が14羽もいる居間に入って団らんし、そのときはまだ、わたしは彼女がそんなに鳥ぎらいだとは知らなかったのだけれど、幸い何事も起きなかった。
 それもそのはずで、夜の7時すぎの来宅だったため、文鳥たちの鳥かごには布がかけられていて、みんな眠っていたからだった。
 知らない人が聞けば笑い話かもしれないけど、彼女の鳥ぎらいは家族にとっても大変らしい。わたしには理解できないことで、彼女にもその理由はわからないというから、理由などなく嫌い、つまりそれほどいやなのかもしれない。どうも生理的に受け付けないらしいから、遺伝子にわたしとは違う何らかの鳥情報が入っている可能性がある。
 そういえば、わたしの場合、親たちも文鳥やインコを飼っていたし、祖母もチャボや怪我をしたオナガドリを飼ったりしていた。夫の祖父もたくさんの十姉妹を飼育していたことがあると聞いたから、環境によっても鳥ぎらいか鳥ずきかが決まってくるのかもしれない。
 ともあれ、そんな彼女たちが、このブログを見ることはないはずだ。

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