2016年7月22日金曜日

(6)わがままと体験

  いま家にいる12話の文鳥のうち10羽はこの家で生まれ育った。白文長のフーとピポの夫として迎えたシナモン文鳥のパピとチーがこの10羽の文鳥たちの父親だけれど、パピとチーが来てからそろそろ6年半になる。
 年齢はパピが7歳半でチーが8月で7歳になるから、もうどちらも老齢の身で、そのせいかあまりほかのオスと争ったりしない。
 彼らの子孫はパピの子どもがココとマイ、チーの子どもがルミ、トビ、ユウ、メグで孫がクリ、ひ孫がラン、スー、ミーである。パピよりチーの子孫のほうが多いけれど、これはマイとルミの間に子どもが生まれなかったからだろう。
 こうしてみると、チーの変わった性格を受け継ぐものが多そうに思えるものの、実際にはそうでもないようだ。
 親から受け継いだ持ち前の性格というのもそれぞれにあるようだけど、育つ環境の影響もかなり大きいように思う。
 1歳のときにもらわれてきたパピは、いまでもほかの子たちと少し違い、勝手気ままに暴れ回ったりはしない。簡単にいってしまえばパピは苦労人で、〝わがままじゃない〟ということになるだろうか。
 パピが1歳までどんな暮らしをしてきたかはわからないけど、この家にきたとき全く飛べなかったことを考えれば、狭い場所に閉じ込められていたことが容易に想像できる。人を怖がっているようでもあった。きたとき、フーとピポがいたからよかったものの、どうなることかとこちらも不安だった。
 この家で生まれ育った若い文鳥たちは勝手気ままに暴れているが、パピがわたしたちを困らせたのは最初のうちだけだ。
 それは人の手が怖かったのだから、鳥かごに戻すのは大変だった。けれども、慣れてきたら、頃合いを見て、自分で鳥かごに戻るようになった。
 パピにとって幼いときの経験がよかったのかどうかはわからない。けれども鳥も人も不自由さや苦しさを経験しないと、普通に暮らせるありがたさはなかなかわからないのかもしれない。
「可愛い子には旅をさせよ」というように、子どものときに苦しさや辛さを経験したものにとっては、普通に暮らせることが、どれほど楽しくありがたいことかが、身に染みてわかるのだろう。
 もうかなり昔になるけれど、息子が中学生のころ、「これはまずい」「また、このおかずか」などと食事のときによく文句をいっていた。
「それなら自分でつくれ」といいたいところを我慢していたが、1か月ほどアメリカ中西部のある農家にホームステイしてきてからは、何でもおいしそうに食べるようになった。これまで嫌いだった〝おすまし〟もアメリカでは飲みたくなったといった。アイスクリームにはチョコレートをかけて、さらに甘くして食べるらしい。お腹の調子が悪くなったらコーラを勧められたといって、日本での食事がいかに自分に合っていたかを思い知らされたようだった。お蔭で、その後はいっさい食事の内容に文句をいうことがなくなったから、経験というのは大したものだと思った。
 とはいえ、できれば辛い体験はしたくない。だからなるべく小さな辛い体験から想像力を働かしてみることが大切なように思う。そのためには子どものころからいろんな人に出会って話を聞き、想像力を使って視野を広げることが必要かもしれない。
 世の中には自分と違う生活があることを早くから知っているほうがいいのではないかと、パピを見て思うのだ。
 余談だけれど、息子がアメリカから帰ったときにいっていた。
「アメリカで日本語を話して、日本食を食べて暮らせたらなあ」と。そして、「石ころ1個あれば、すぐにみんなで遊びを作るんだ。それに家の人は、子どもたちに何をしろとかいわないんだ。だけど、何もしないでいられないから、ぼくも農家の仕事を手伝ったら、ほめられた。牛乳がおいしかったなあ。途中でお腹がいたくならなければもっと楽しかったのに」と続けた。けれども親の期待に反して、最後まで「もっと英会話を勉強しなくちゃ」とはいわなかった。

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